世界遺産・姫路城の工事を見学
思い出し日記
13.12.31のこと、天守閣の工事現場で、屋根瓦の漆喰技法を眼前で見た。
姫路城改修工事を見学できる期間があったので絶対に見逃せなかった。
改修工事中だったから 2015年春まで完全な姿は見られない。
★ちなみに姫路城は翌年の2015.4.9に完成予定。
漆喰の白塗りのお化粧をして早く顔を出してきてほしい。
来年2014.4.1からNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」が始まるという時期だった
NHK大河ドラマで「軍師官兵衛」が好調な視聴率を取る前の写真。
そのドラマ館が完成し、観光客を迎える準備をしている最中だった。
地元ならどこでもそうだが、播州の宝として全ての面で盛り上がっている。
全国からのツアー客を呼び込もうと広告旗で溢れた姫路の並木道。
名物の姫路おでんも食べていただこうと売り込みに必死。
生姜醤油で食べる味はまた格別に美味しい。
期間限定の見学で、工事現場の天守閣へは特設エレベーター8階まで昇る。
押し寄せる人の波にも耐えて8階へ階段を上る。
まだ大屋根が天守閣の瓦を覆っていたが、それも眼前に見える。
緻密で高等技術が見られる漆喰。歴代藩主の紋所が焼きこまれていた。
この城は白い漆喰が特徴
昭和の時代よりも平成の修理は重機も揃っているだろうからな・・・
見下ろせば城内と市街の新しい発見。遠くには書写山が見えてくる。
スタッフの背中に描かれた文字
改装中の天守閣だけが囲まれている
改装中の天守閣以外でも 見るべききれいな場所は沢山あるので名城といえる。
土産物売り場では、ユニークな門番が立っていた。
お土産は何でもありだ!
B1グランプリ・姫路城で開催
思い出し日記だが記憶はまだまだいけるかも・・
fot:2011.5.21
お城の天守閣は改修中だが、素屋根で覆われた変装の姫路城が遠くに見える。
当時の姫路城は絵に描いたこんなスタイル。
面白いアイデアだが、今回は白い色なのでぼやけて ぼやけてよく見えない。
半世紀前の昭和の大修理では、真っ黒な素屋根の姿が重苦しい感じだった。
天気の良い日には、20km離れた実家からでも見えていた。
見えた事自体、それにはちょっと感動した記憶がある。
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そんな時、お城を囲んでの大イベントがあった。
fot:2011.5.21
2011.5.21から開幕する近畿・中国・四国「B1グランプリ」は大盛況だった。
(秋には全国大会も行われるので、これはプレイベントとなる。)
東日本大震災復興支援大会
前売り1000円綴りのチケットを買っていて、わくわくしていたなぁ。
全国から色んな美味しいものを求めて大行列ができていた。
食べ終われば、自分のお箸を優勝させたいボックスに投入する。
箸の重量によって美味しさチャンピオンを決めるユニークな大会だ。
会場が広すぎるので、歩きまわると夕方には万歩計が14000歩も指していた。
お腹は満たされるが、B1グランプリは疲れるイベントなんだね。
東北大震災からまだ日が浅いのに、福島や岩手、宮城からも出店されていた。
開催地のあたたかい好意に大変感激していたようだ。
ちなみにグランプリは、兵庫・蒜山焼きそばだったかな。
★B1グルメの裏側では、食材を姫路で調達しようとする団体が多い。
農業製品や肉製品、卵などが売れて、経済もうるおう。
淡路の玉ねぎをはじめ、人参、もやし、ネギなど5トンも注文があったという。
その加工業者も仕事が増えて「B1グルメ・姫路」さまさまなのではなかったか。
催事の裏側を読み解くのも面白いと思った。
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秋・11月には全国大会も行われた
11月12日(土)、13日(日)、西日本では初めて兵庫県姫路市で開催された。
今年で第6回目となる今大会は、前年の厚木大会を約8万人上回る51万5000人
(主催者発表)が来場し、大会史上最多の来場者数を記録した。
出展した団体数も前年より17団体多い63団体で過去最多。
全国から集まった63団体の頂点に立ったのは、
前年のシルバーグランプリを獲得した、ひるぜん焼きそば好いとん会
★ちなみに国宝・姫路城は改修中、まだまだ先の2015.4.9に完成予定。
姫路城で最後の観桜会
2010.4.3の写真を眺めながら思い出している。
2010.4.3の事です。
お城は これから長い月日をかけて、漆喰の修復にかかることになる。
三の丸広場で最後の観桜会が行われた。
★ちなみに世界遺産の国宝・姫路城は、改修後2015.4.9に完成の予定。
姫路城お花見太鼓が披露され、空気を震わす心地よい音が鳴っていた。
姫路市の太鼓打ちの会がたくさんあるのには驚いた。
屋根は漆喰にカビが生えて黒くなっているが、それが重厚ささえ感じる。
クレーンを立て、すでに平成の大修理の準備が始まっていた。
改修が完了するのは 2015.4.9 の予定。
見納めに寂しい感情が溢れてきたことを思い出す。
当時、姫路城の瓦に名前を刻みませんか? という企画があった。
姫路城「平成の大修理」に3万円以上寄付すれば、
抽選で大天守の瓦に名前を記入できることを知ってもらおうと、
姫路市が入城口近くの仮事務所で瓦2枚の見本展示を始めた。
今回の修理では、約8万枚に上るとみられる大天守の瓦をふき直す。
1枚の重さは平瓦4・5キロ、丸瓦3・6キロ。
ほかに鯱や鬼瓦などを含めると、39種類あるという。
一枚一枚丹念にたたいて、瓦の割れやひびの有無を調べ、
使える瓦は再度利用する。記名できるのは、新たに取り換える瓦で、
事前調査の結果、1千枚程度と予測されている。
平成の大修理前の姫路城
国宝・姫路城が大改修される前に見ておこうと足を運んだ記憶。
改修前の屋根瓦や白壁は黒く汚れているが、それもまた重みがあっていい。
姫路城は2010年から平成の大修理に入るので全体像が見られなくなる。
fot:2009.11.7
姫山・鷺山(城山)への入口を固める櫓門で、菱の門と呼ぶ。
門の正面には蔀(しとみ)となる石垣と土塀があり、枡形構造になっている。
菱の門の名称は、鏡柱上部の冠木に木製の花菱が飾られていることに由来。
鏡柱は1本の太い角柱のように見えるが、実は板で覆った集成材のようなもので、板の合端を隠すために筋金具を打ちつけている。
2階の正面には黒漆に飾り金具がついた火灯窓・武者窓が配置されている 菱の門では忍者がお相手をしてくれる。
菱の門をくぐり右に天守閣を仰ぐことができる。
見慣れた正面からの国宝姫路城とは違い南西の方角から見ると
これもまた美しいフォルムだと思う。
天守閣の真下から見上げてみた。
少し角度を変えると様々な形が見られるので面白いお城だ。
天守閣から眺める景色はいいものだ。渡り廊下と千姫御殿が見える。
しかし、天守閣までの階段を登ると疲れが増してくる。
広いお城の造りを見るのは楽しくて飽きないが、
足が・・ お腹もすいてくるのは仕方がないかな。
江戸初期の初代藩主・池田輝政の居館があった場所らしい。
画家好みや映画ロケの絶好の場所とされているスポットが多い。
攻め込んだら突き当りのような造り
白壁の鉄砲間から覗くと面白い景色が発見できる
苔むした石垣の向こうにお城の白壁が見える
歴代当主の瓦紋
角度を変えて見る姫路城再発見、どこから見ても美しい城だこと。
国宝であり世界遺産といえるのは紛れもない
最後に外から眺めた正面の姫路城。
はの屋形 ろの屋形などからも見える。
昔の家老屋敷跡は土産屋になっていて外国人なども多く賑やかだった。
歩き疲れて最後にちょっと覗いてみるのもいいかも。
松原八幡神社と黒田官兵衛
2014.5.15の歴史ウオークを思い出している
姫路市白浜町の松原八幡神社で行われる秋季例祭。
姫路・灘のけんか祭りと呼ばれ、
神輿練りのほか、絢爛たる屋台を盛大に練り競う
勇壮豪華な屋台練りが人気を呼び、
海外にまでその名を知られるようになっている。「
初めての人にはおすすめの秋祭りで毎年10月14日・15日に行われる。
一の丸、二の丸、三の丸からなる3基の神輿をぶつけ合わせる神事と、
旧7ヶ村の絢爛豪華な屋台が激しく練り競う勇壮な屋台練りが行われる。
「松原八幡神社秋季例祭風流」として、
姫路市と兵庫県の重要無形民俗文化財に指定されている。
また、旧松原村の獅子屋台の太鼓の音は「日本の音風景100選」に選ばれた。
このけんか祭りは、松原神社の神前に終結して
それぞれの地区自慢の「屋台」(神輿:みこし)をぶつけ合う、
男たちの気迫あふれるダイナミックで絢爛豪華な祭り。
歩きながら最終地点の松原神社境内までたどり着いた。
fot:2014.5.15
神社の景観と言えば、外には蔵屋敷を思わせるようなお手洗い場がある。
祭り屋台の練場から神社内を写してみた。
天正5年(1577)、織田信長の命を受けて中国平定のため播磨に入った羽柴秀吉が、
播磨の諸城を攻略している時、
松原八幡神社と八正寺は秀吉方に属し、別所長治と対立したため、
長治を援助する毛利輝元の軍船が来襲したため、
兵火にみまわれたという。
また天正9年(1581)、秀吉は松原八幡神社に城南芝原へ移転するよう命じたが
松原の地は由緒ある土地であることを理由に移転を拒んだため
秀吉の勘気に触れ、社領を60石に減らされた(飾磨郡誌)という。
この時、秀吉の軍師・黒田官兵衛が秀吉に懇願し、
松原八幡神社がこの地での存続につながったと伝わっている。
神社を最後に黒田官兵衛の歴史ウオークを終える。
神社の門を出て、松原村の路地をくぐり抜け行き着いたのは、
姫路おでんの報道取材が多い地元の有名店「澤田店」。
終着点のおでん屋さんで美味しい珈琲を飲もうと意気込む。
気さくで明るいおばちゃんがいるから繁盛するのは当然みたい。
週刊誌の取材が多いので、おばちゃんの出番とばかりに喋るそうだ。
2014年3月11日発売の「女性自身」と2014年3月25日号
(光文社発行:特別定価[税込]:390円)に澤田店が登場したとのこと。
綴じ込み記事「大河ドラマで話題の官兵衛のふるさと とことんガイド」の中で
掲載されている「ゆかりの6人と旅する姫路」編で、
澤田店の姫路おでんが「姫路のソウルフード」として紹介されていた。
40万部以上発行されている雑誌に掲載され、今回ついに、
名物女将と一緒に全国区になりましたということだった。笑笑
車道を南へ渡り、階段の下の路地を入ると、澤田店がある。
いつまでも夫婦仲良く、
美味しいおでんやお好み焼きを焼いてくださいね。
〒672-8023
兵庫県姫路市白浜町甲347-14
TEL.079-245-6355 FAX.079-245-6355
http://oden-sawadamise.at.webry.info/
澤田店のブログもありました。
秋は姫路灘のけんか祭り
妻鹿の街を歩けば黒田官兵衛に関わる物が多い。
姫路市白浜町の「松原八幡神社」で行われる秋季例祭は、
灘のけんか祭りと呼ばれ数万人の観客が押し寄せる。
毎年、10月14日と15日と決まっているので観光には予定しやすい。
神輿練りのほか、絢爛たる屋台を盛大に練り競う勇壮豪華な
屋台練りが人気を呼び、海外にまで知られるようになっている。
まだ見ていない人にはおすすめの秋祭りだと思う。
fot:2014.5.15
地域の文化財ともいえる衣装保存蔵&屋台蔵
秋期例祭まで大切に保管されている屋台は綺麗だ
秋祭りが終わったとたんに、来年の祭りが始まっているなどと言われる。
祭りを行うには長い期間が必要だという意味なのだが、
地元の人の祭りへの熱い思いと誇りが感じられる。
忙しい中、妻鹿地区の屋台保存会の人に熱い説明を受ける。
普通は予約が必要なのだが貴重な時間を与えて頂き、
誰にも簡単には聞けない内容に感謝を申し上げる。
黒田官兵衛の刺繍を施した豪華な布の飾り物。
官兵衛初陣の様子を描いた刺繍。
彫り物も素晴らしい。
時代ごとに使用された道具や資料が保存されている。
こんなにじっくり見られて、しかも説明付きなので貴重な体験。
保存会のみなさん、有難うございました。
こんな機会は二度と無いと思う。
全国の人にも聞かせてあげたい、見せてあげたい、伝えたい。
黒田官兵衛コレクション
自宅が展示場で、神澤輝和さんの所有するコレクション。
これから「播州黒田武士の館」を見学する。
fot:14.5.12
妻鹿の歴史散策の中間点に差し掛かった頃、
国道250号線よりも浜の方角の住宅街へ案内された。
普通の住宅だが、そこはまさに官兵衛の館だった。
入口の展示を見た瞬間に歴史好きな私の胸がときめく。
テレビや新聞紙上の告知が多いので、期待感が大きかった。
黒田家に関わるコレクションの数々に圧倒された
この絵は国府城のものだろう。当時、お城というか砦だったような造り。
長男長政に家督を譲り隠居し 名を改め如水としての姿。
多く見るのは、この頭巾姿の方が如水らしい姿かもしれない。
歴代領主の家系図が展示されている。
レプリカだろうが、鎧兜を見られるだけでもうれしい。
妻鹿へ立ち寄った時は、一度訪れてみてはいかがでしょうか。
黒田官兵衛に関わった街・妻鹿
廟所を見学した後の ぷらっと歩き旅は「妻鹿街歩き」
妻鹿の街を歩くと、黒田官兵衛に関わる物や歴史を感じる建築物が多い。
妻鹿駅から海岸方面、中心街へと歩く
fot:2014.05.16
月松山という寺院からお経を読む声が聞こえてきたので門をくぐった。
門をくぐると立派な構造の釣鐘堂がある。
戦争時に金属供出にあい、釣鐘は取られたが、
まもなく戦争が終わり、返されたというラッキーな釣鐘だ。
この釣鐘は、黒田官兵衛が松原神社に寄進したとされている。
当時は寺社仏閣が同じように祀られていたが、
神社と寺を分離させることになり、この釣鐘をこのお寺へ設置したという。
ガイドさんから興味深い話が聞けて嬉しい。
当時に植えられた樹木は年輪を重ね、立派な形で育っている。
庭の手入れもきれい
次は、少し先のこじんまりとした教念寺(浄土真宗)の門をくぐる。
インド仏教の初期は、お釈迦さんの足裏の形を石に刻み、
それを拝むという行為をしていたそうだ。
なるほど、そうだったのか。
この教念寺の住職がインド仏跡の巡礼記念として
昭和4年にお釈迦さんの足裏の石形を造ったそうだ。
石の溜め水があり、植物が生えて、メダカが泳いでいた。
細かいところにも手が加えられているなぁ・・。
そしてまた街を歩く。
石壁と伽藍の似合う街並みが歴史を感じる。
昔の広くない道幅に神社仏閣が点在するという妻鹿が好きになった。
昔から頑張っている散髪屋さんがあった。
看板とかシンボルのような物が見当たらない。
これは風流!
その先を行くと、埋め立て跡で、ここから海や漁港が見当たらない。
ここに海の岸壁があって、昔は栄えた魚市場があったらしい。
妻鹿漁港魚市場跡の石碑だけが残っている。
妻鹿と中村との境目に、大きな3個の石がある。
秋祭りの太鼓が鳴るたびに、3個の石が喜んで振動するそうだ。
ボランティアガイドさんによると、子供のころ大人から聞かされたが、
まだ動いた石を見たことも無いと笑っていた。
秋祭りとは、日本三大喧嘩祭りと言われる松原神社の勇壮な祭りの事。
黒田官兵衛の歴史ウオーク
2014年の春、官兵衛の足跡を追って歩いた記憶を辿ってみる。
この日、播磨路は絶好のハイキング日和だった。
日本三大けんか祭りで有名な姫路市の松原神社がある所の
私鉄山陽電車「白浜の宮駅」で下車し、
中村公園へ集合した午前10時から始める。
fot:2014.5.11
こういうウオーキングプランに参加するのは初めてだが、愛好家が多いね。
最初に目指したのは、歴史ある麻生八幡神社。
どんな神社なのか行って初めて知る事ばかりだった。
麻生八幡神社を後にして、仁寿山への急勾配を息切らせながらの登山。
中腹まで登った所で腰かけて休んでいると、
頂上まで登った先頭集団が戻ってきたがハツラツとしている。
まだハイキングの始まりだというのにみんなお元気。
付け加えれば60歳以上ばかり・・だと思う。
歩きなれた人のバッグには、記念のバッジがカラフルに飾られている。
道端の草花も目で楽しみながらの時間が楽しい。
これは矢車草ですねと話しかけてくれる人もいて。
畑には夏野菜の苗があちこちに植えられて、なんてのどかな風景だこと。
庭の甘いサクランボを私たちのような通行人に惜しげも無く配る男性。
一粒頂いて口に含むと疲れが抜けそうな甘さだった。
やや、足取りが重くなりだした。
水音を聞きながら市川を西へ越え、高浜総合公園(姫路の手前)に到着。
腰を下ろし休憩しながら談笑、そしてお弁当タイム。
こんな時のおむすびは最高に美味しい。
加古川市・鶴林寺には、古くから伝わる年中行事「鬼追い」がある。
それを味に表した名物茶菓子「松風堂の鬼追いまんじゅう」を頂いた。
薄皮にしっとりした餡を包んで、あっさり仕上げの味わいが最高だ。
休憩を終え、官兵衛と父・職隆の居城跡(左の山)を目指し、
春の緑が爽やかな市川堤防沿いを南へ(妻鹿方面)歩く。
翌年からNHK大河ドラマ・黒田官兵衛が放映される時だったので、
姫路市は期待に胸膨らませ、告知におおわらわだった頃の話題を書いている。
国府山城は標高98mに位置する。
市川沿いに振り返り、北北西を見ると、
修復中の姫路城てっぺんが白くうっすらと見えていた。
秀吉が居城とした姫路城と国府山城の位置関係が理解できる。
甲山にある国府城は、妻鹿城とも功山城ともよばれる。
国府山城を見てみたい。
官兵衛の父職隆が築いた非常に立地の良い城。
当時、播磨地方は織田の敵対地で、天正八年(1580)羽柴秀吉は、
三木城主別所長治を滅ぼし、三木城を居城とした。
これに対し、官兵衛は三木城が戦略的に不備であることを進言し、
自らの居城である姫路城を譲り渡し、
父・職隆とともにこの国府山城に移ったというお城だ。
黒田家は目薬の木から目薬をこと製造販売していたという。
この妻鹿一帯は、黒田家を祀る様々な寺社や廟所が建てられて
地元の人が誇れるシンボルとなっている。
市川の西、左奥が羽柴秀吉に譲った姫路城がある。
官兵衛の家来・母里太兵衛友信の生誕地もあった。
母里太兵衛友信は、民謡の黒田節に謡われる槍の名手。
昔の地理を考えながら、ここでどう過ごしたのかと考えてみるのも面白い。
こういう民家の辺りにあるから、なかなか探しにくい。
これから妻鹿の街中へ歩く。
姫路城主・黒田官兵衛について
2014年1月から放送されたNHKの大河ドラマ・黒田官兵衛とは。
官兵衛はドラマに登場することが少ない人物で知名度はそれほど高くない。
地元民として嬉しい事であり誇りに思う。
★ちなみに国宝・姫路城は改修中であり、2年後の2015.4.9に完成予定。
祖父の代に姫路に辿り着いた。
父・職隆は地元の大名・小寺氏に仕官し家老として重用されていた。
22歳にして、結婚と同時に家督を継ぎ小寺家家老の座に着く。
織田信長の将来性をいち早く見抜き、
羽柴秀吉には弟同然と呼ばれるほどに信頼される。
主君・小寺藤兵衛が織田家を裏切った際には、
説得しようとして罠に落ち、1年以上、牢に幽閉される。
★このくだりは司馬遼太郎の「播磨灘物語」を読むと詳しくわかる。
出獄後は小寺家と縁を切り、秀吉の軍師となる。
秀吉の天下取りを演出しながら、天下統一が近づく中、
秀吉から「次の天下を狙う男」として警戒されていることを知るや
44歳の若さで家督を息子・長政に譲り、あっさり隠居する。
その後は、剃髪し如水(じょすい)と名乗るようになる。
★ここからは黒田如水という本を読むのがベスト。
関が原の戦いの際には、領地である豊前(大分県)中津にあって、
牢人兵を率い九州を席巻、最後の大勝負に出るが、
息子・長政の活躍で関が原が半日で終わり天下は夢に終わる。
戦の後は全ての恩賞を断り、長政に与えられた筑前国(福岡県)福岡で
静かな最後を送り、59歳の生涯を閉じる。
姫路城 昭和の大修理の歴史
昭和の大修理完成までの姫路城 とは
総合的大修理を行うとの方針が打ち出された。
昭和9年6月、豪雨のため、西の丸の「タ」から「ヲ」の渡櫓にかけて、
石垣もろとも櫓が崩壊するという災害が起きた。
そこで、臨時の災害復旧修理事業として西の丸の修理計画が立案された。
これが、姫路城大修理工事の発端である。
昭和10年、姫路城国宝保存工事事務所が文部省の出先機関として開設。
工事は戦争で中断したものの、昭和25年、第1次6ヶ年工事が再開され、
菱の門から備前丸の範囲が修理の対象となった。
昭和の大修理前の天守
いっぽう、昭和26年に姫路城が新国宝に指定される。
この工事終了に前後して、大天守一帯の根本的な解体修理を含む
第2次工事の計画がたてられ、昭和31年から実施された。
ぼろぼろになった部位もあったそうな。
最初の大事業は天守に素屋根を架けることで、翌年に完成した。
大天守の解体は昭和33年に完了し、
その過程で多くの銘文(めいぶん)が発見され、
天守の築造過程を知ることができた。
また、大天守を支えるためにコンクリ-ト地盤が築かれることになり、
昭和31年からの工事で旧礎石は撤去された。
昭和32年に素屋根を取り付ける。
昭和33年に解体工事が完了した。
昭和34年から組立工事が開始され、翌年上棟祭が行われた。
以後、小天守、渡櫓、台所の修理も行われ、
昭和39年3月末までに天守群の工事が完了した。
この工事には8年の歳月とのべ25万人の労働力が費やされた。
これを昭和の大修理と呼ぶ。
ぼんやりと記憶しているが、まだ小学生から中学生のことである。
晴天の日に姫路の方角を見ると山裾に見える黒い影。
それが大天守を覆った素屋根だったようだ。
姫路の街へ遊びに行くことがあった日にそれを確認できた。
(昔の事なので 一部参考にして拝借した文面・画像があります)
fot:2007.5.19
宮崎の平和台公園~宮崎神宮
★宮崎市内の観光巡りをした思い出
fot:15.3.31
鹿児島から日南海岸巡りを終えて、宮崎・平和台公園まで足を延ばす。
平和台公園というから、福岡にあるかと思っていたが勘違いだった。
(昔のプロ野球の西鉄ライオンズは平和台球場が本拠地だった・笑)
宮崎市下北方町にあるこの平和台公園は、標高60mの丘にあり、
季節の花と緑が美しい公園で、また来たい。
宮崎市街地を見渡せる平和の塔や、古代ムードあふれる「はにわ園」、
自然林や丘の起伏をいかした遊歩道、アスレチック広場などがある。
★はにわ園
平和の塔のそばに広い森があり、
古墳を型どった盛土の上に、日本各地から発掘された埴輪、
土器などの複製品が約400基配置されている。
広大な公園なので歩いて一回りは無理だ。
駐車場が3か所もあり、カーナビが教えてくれたけれど
目的地とは反対方向へ案内してくれていた(笑)
鳩が飛び交っているが、平和の象徴とされる白い鳩しか住んでいない。
★平和台公園の歴史
昭和14年(1939)、皇紀2600年の記念事業として着工し、
昭和15年11月15日竣工した平和の塔(高さ37m)がある。
基部面積は1023平方メートル。
昭和40年8月には東京の日比谷公園と姉妹公園となり、ハトが寄贈された。
飼育小屋があって、公園内は白い鳩が餌を探している。
昭和39年の東京オリンピックでは、
そのときに使用された聖火台も残されている。
とても珍しい世界を見ることができた。
シーガイアの目の前にある「フローランテ宮崎」へも行ってみた。
まるでガーデニングの見本みたいなきれいな花園 だった。
小雨がそぼ降るような暗雲の空なのに、暖かい春を感じた。
四季折々の花と緑を楽しむことができる植物公園。
平日なのに沢山の人が訪れていた。
チケットを買い、入場した視線の先は、
緑の芝生が広がり、カラフルに彩られた花・花・花
神戸の須磨離宮にも似た爽やかさ。
しいて言えば・・
マリー・アントワネットが暮らしたヴェルサイユ宮殿の雰囲気もある。
しかし、ウィーンで見たヴェルサイユ宮殿はやはり最高だったかも。
一年中、緑が美しい芝生広場があり、
テーマ別に植栽されたガーデニングの見本園や、
誰でもガーデニング体験などができる場所もあるようだ。
これなら花と緑に囲まれて過ごすことができるから人気があるのかな。
ドライブの疲れが吹っ飛んだ午後だった。
小腹が空いたので、マクドナルドにでも寄っていこう。
親しみをこめて神武さん参りというらしい。
広い境内で歩き疲れそうだ。
さつま芋かと思ったら、たばこ栽培の畑が広がっていた。
古代ロマンを求めて神話めぐりも。
宮崎歴史文化館へ入るとこの辺りの有力者の様子がわかる。
島津家の領地範囲にあったこともあり、鹿児島と宮崎は分裂を繰り返していた。
宮崎/道の駅 酒谷・飫肥城・油津港
★鹿児島から宮崎日南海岸へ
国道269号線沿いの弥五郎伝説の里を見学したら次へGO!
右方向の222号線へ入り宮崎・日南市油津漁港を目指す。
その途中に飫肥城があり、見学して油津漁港へ出るコースを選ぶ。
▲夏の田んぼは青々とした稲が実っている。(画像は拝借したもの)
しばらく車で走ると車窓の向こうに田園風景が見えてきた。
この辺りは日本の棚田100選に選ばれた「坂本棚田」がある。
この時、稲刈りのシーズンで家族総出で忙しそうだった。
途中に「道の駅・酒谷」へ寄り道して遅い昼食。
fot:16.10.
道の駅 酒谷
〒889-2512 宮崎県日南市酒谷甲
お食事処「せせらぎの里」
店の周りにはお年寄りが揃いの法被を着て腰掛けて話している。
ボランティアの人にしては案内もしてくれない。
お暇な老人が集まっての井戸端会議かな。
そこが田舎らしい(笑)
時計の文字盤が面白い。
古いメニュー札と新デザインの時計のミスマッチングも面白い。
たまご丼でお腹がパンパン。
夜までに運動しておかないと困ったことになりそう。
この頃は、プロ野球のクライマックスシリーズで盛り上がっていた。
宮崎にも広島カープと西武ライオンズの後援会というか応援団があるのかな。
道の駅というのは、ドライブで疲れた体をリフレッシュできる最適な所だね。
この道を選んで正解だったよ。
緑豊かな山々、綺麗な渓谷があり、
心和む風景が見られてよかったなぁと思う。
飫肥には、歴史のある武家屋敷や、昔の風情が残る町に飫肥城がある。
歴史ある城下町の飫肥城を再び訪れて少しの時間ながら散策。
小柳ルミ子が歌った 私の城下町♪・・ がよく似合いそう。
ここは九州の小京都と呼ばれ、建築物など昔の名残が美しい街。
鎌倉時代に曽我物語に登場する工藤祐経という武将がいたそうだ。
祐経は、源頼朝より日向国をはじめとして全国各地に所領を与えられ、
伊豆国伊東の地に居住したという。
その子である祐時は姓を伊東と改姓し、6代伊東祐持のとき、
代々都於郡城を居城にその勢力を拡大し、1
日向国内に覇権を樹立。
しかし、天正5年(1577年)島津氏に敗れて豊後国に落ちたようだ。
その後伊東氏が大名として復活するのは、
豊臣秀吉に仕えた義祐の子・祐兵が、
以降280年余、飫肥藩(五万一千石)を伊東氏14代で治めたという。
その当時のきれいなお城と城下が残っている。
飫肥城歴史資料館
やっと油津へ到着。
昔は大変栄えた漁港で歴史のある有名な所だ。
現在はプロ野球・広島カープのキャンプ地として街を上げて応援している。
天福球場↓ (画像は拝借したもの)
(画像は拝借したもの)
広渡川河口から油津港を結ぶ「堀川運河」は、
飫肥藩が飫肥杉の運搬を効率的に行うためにつくられた運河らしい。
1686年に飫肥藩主伊東祐実(すけざね)の命により
二十八ケ月の歳月をかけ完成したらしい。
平成4年には、堀川運河に架かる堀川橋を舞台に
映画「男はつらいよ寅次郎の青春」が撮影された。
髪結いの亭主におさまった寅さんの笑顔が思い出される
戦時中、代用食として魚のすり身と片栗粉でうどんを作っていたそうだ。
戦後、すっかり忘れられていた懐かしい味を再現したうどん。
現地では食べる時間も無かったので、検索して画像も拝借している。
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油津から日南海岸に出たので、宮崎市内を目指して運転して行こう
鹿児島/おおすみ弥五郎伝説の里
★鹿児島鹿屋市から宮崎日南海岸へ
鹿屋市から北上すると、道の駅・おおすみ弥五郎伝説の里がある。
「農土家市」という大特産品直売施設では、
さすがに農家をイメージする鶏、黒豚、和牛が出迎えてくれる。
黒豚料理が食べられるレストランもある。
弥五郎伝説の里
小高い丘に建つ弥五郎の銅像がシンボルとなっている。
高さが15mもあるので圧倒されてしまう。
弥五郎どんの巨人伝説?
昔むかし、宮崎の南の方に「弥五郎どん」という人がいました。
弥五郎どんは、それはそれは大きい人で、山に腰かけて
海でざんぶざんぶと顔を洗ったくらいでした。
弥五郎どんが歩くとその足あとが谷になったり池になったりもしました。
弥五郎どんはとてもやさしい人でした。
ある日、大雨がふって、川の土手がこわれてしまったときのことです。
村人が「弥五郎どん。近くの川の土手がくずれたので、どうか直してください」
とお願いすると、弥五郎どんは「よし分かった」
と言って、山の上から大きな岩をひょいと持ち上げると、
土手のくずれたところにポンと置き、あっというまに直してしまいました。
弥五郎どんはいたずらも大好きでした。
ある時、大きな岩で川の水をせき止めて、
「おれのわらじを百足作ってくれたら、岩を取ってやってもいい」と言いました。
村人は「また、弥五郎どんの無理なわがまま言いが始まった」と笑っていました。
また、ある時は「山に登って、かみなりさまをかき混(ま)ぜて、
二度と鳴らんようにしてくれる」と言い、
これには村人たちもびっくりしてしまいました。
このように村人たちは、弥五郎どんから助けられたり、
いたずらされたり、おどろかされたりしながら、
おたがいに仲良くくらしたということです。