旅人になりたい

鹿児島の西日本最南端の西大山駅で開聞岳を見、宮崎青島の黄色いポストへ絵葉書を投函した思い出から始まる。

姫路城 昭和の大修理の歴史

 

昭和の大修理完成までの姫路城 とは

 

昭和4年、国宝保存法が施行されると、法隆寺と姫路城を中心に

総合的大修理を行うとの方針が打ち出された。

昭和9年6月、豪雨のため、西の丸の「タ」から「ヲ」の渡櫓にかけて、

石垣もろとも櫓が崩壊するという災害が起きた。 

そこで、臨時の災害復旧修理事業として西の丸の修理計画が立案された。 

これが、姫路城大修理工事の発端である。


昭和10年、姫路城国宝保存工事事務所が文部省の出先機関として開設。

工事は戦争で中断したものの、昭和25年、第1次6ヶ年工事が再開され、

菱の門から備前丸の範囲が修理の対象となった。

f:id:tabibitokun:20180505134603j:plain 昭和の大修理前の天守

 

いっぽう、昭和26年に姫路城が新国宝に指定される。

 この工事終了に前後して、大天守一帯の根本的な解体修理を含む

第2次工事の計画がたてられ、昭和31年から実施された。

 

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ぼろぼろになった部位もあったそうな。

 
最初の大事業は天守に素屋根を架けることで、翌年に完成した。

天守の解体は昭和33年に完了し、

その過程で多くの銘文(めいぶん)が発見され、

天守の築造過程を知ることができた。

また、大天守を支えるためにコンクリ-ト地盤が築かれることになり、

昭和31年からの工事で旧礎石は撤去された。

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昭和32年に素屋根を取り付ける。

昭和33年に解体工事が完了した。 

昭和34年から組立工事が開始され、翌年上棟祭が行われた。

以後、小天守、渡櫓、台所の修理も行われ、

昭和39年3月末までに天守群の工事が完了した。

この工事には8年の歳月とのべ25万人の労働力が費やされた。

これを昭和の大修理と呼ぶ。

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ぼんやりと記憶しているが、まだ小学生から中学生のことである。

晴天の日に姫路の方角を見ると山裾に見える黒い影。

それが大天守を覆った素屋根だったようだ。

姫路の街へ遊びに行くことがあった日にそれを確認できた。

 

(昔の事なので 一部参考にして拝借した文面・画像があります)

 

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fot:2007.5.19