旅人になりたい

鹿児島の西日本最南端の西大山駅で開聞岳を見、宮崎青島の黄色いポストへ絵葉書を投函した思い出から始まる。

姫路城は 何度訪れても新発見

姫路城は「不戦の城」だ。

優れた防御力で「難攻不落」とされた姫路城。
要塞として本来の役割を発揮する機会はなかったが、

それは、徳川幕府の平和な時代の恩恵でもある。
太平洋戦争では、アメリカ軍の空襲からも奇跡的に焼け残った。
今、世界遺産・国宝姫路城は世界各国からの観光客で賑わっている。

ドイツのノインシュタイン城と共に、白亜の城として脚光を浴びる。

何度となく訪れているが、その都度、新しい発見がある。

四季折々の美しさがあり、また来てみたい日本一のお城だ。

 

夏の日

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春の日

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秋の日

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お濠端の遊覧船

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どの角度からでも美しい

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入城は菱の門から

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菱の門とは姫山・鷺山(城山)への入口を固める櫓門で、
門の正面には蔀(しとみ)となる石垣と土塀があり、枡形構造になっている。
「菱の門」の名称は、鏡柱上部の冠木に木製の花菱が飾られていることに由来する。
鏡柱は1本の太い角柱のようにみえるが、実は板で覆った集成材のようなもので、
板の合端を隠すために筋金具を打ちつけている。
外観は、一部を除き白漆喰総塗込めで、柱や貫、長押などの形がそのまま出ているのが特徴。2階の正面には黒漆に飾り金具がついた火灯窓・武者窓が配置されている。
入母屋の東西の妻は、西側が素木の木連格子、東側が白漆喰塗込めになっている。

(ホームページから菱の門の写真を拝借した)

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菱の門をくぐり抜けて、右方向を見ると天守群が迫って来る。
菱の門から東に延びる「菱の門東方土塀」は東へ行くにしたがって、
地盤が傾斜し 下がることで、石垣が段々と高くなっていく。
菱の門の厳重な防御と石垣の高さで、
内部の三国堀曲輪への侵入を防いでいることがわかる。

 

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姫路城には数多くの歴代城主がいる。
戦国時代には黒田官兵衛豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)などが城主をつとめた

ことでも知られているが、「関ケ原の戦い」後に入城した池田輝政によって

現在の姿に大規模に修築された。

 

 備前池田輝政居館跡と標されている。

池田輝政が姫路城を築城したときにこの広場に居館を建てて、

藩主と家族は実際にここに住んでいた。
3代目の光政が鳥取に転封となり、姫路を離れるまで続いたようだ。
なお備前丸という呼び方は、次の本多家時代以降に名付けられたらしい。
備前丸と書かれているのは、

播磨・淡路・備前三国に君臨した西国将軍池田輝政を偲んで、

後年池田家が備前岡山を本拠としたことから名付けられたようだ。

 

 

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城内に残るお菊井戸

姫路城の本丸下、「上山里(かみのやまさと)」と呼ばれる一角に、お菊井戸と呼ばれる古い井戸がある。この井戸は「播州皿屋敷(ばんしゅうさらやしき)」のヒロインお菊が責め殺されて投げ込まれたといわれる井戸で、
もとは釣瓶取(つるべとり)井戸と呼ばれていた。

播州皿屋敷とは、
永正年間(現在の姫路城が出来る前)、

姫路城第9代城主小寺則職の家臣青山鉄山が主家乗っ取りを企てていたが、
これを衣笠元信なる忠臣が察知、自分の妾だったお菊という女性を鉄山の家の女中にし、鉄山の計略を探らせた。元信は、青山が増位山の花見の席で則職を毒殺しようとしていることを突き止め、その花見の席に切り込み、則職を救出し、家島に隠れさせ再起を図る。乗っ取りに失敗した鉄山は、家中に密告者がいたとにらみ、
家来の町坪弾四朗に調査するように命令した。
程なく弾四朗は密告者がお菊であったことを突き止めた。
そこで、以前からお菊のことが好きだった弾四朗は妾になれと言い寄った。
しかし、お菊は拒否した。その態度に立腹した弾四朗は、お菊が管理を委任されていた10枚揃えないと意味のない家宝の毒消しの皿のうちの一枚をわざと隠してお菊にその因縁を付け、とうとう責め殺して古井戸に死体を捨てた。


以来その井戸から夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえたという。
やがて衣笠元信達小寺の家臣によって鉄山一味は討たれ、姫路城は無事、

則職の元に返った。その後、則職はお菊の事を聞き、その死を哀れみ、
十二所神社の中にお菊を「お菊大明神」として祀ったと言い伝えられている。


その後300年程経って城下に奇妙な形をした虫が大量発生し、
人々はお菊が虫になって帰ってきたと言っていたといわれる。
江戸を舞台とした有名な怪談「番町皿屋敷(ばんちょうさらやしき)」は、
この「播州皿屋敷」をモデルにしたともいわれるが、真偽は不明だという。

(以上は各種ホームページからの引用) 

 

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灯篭の台石

将軍坂(はの門南方土塀)を上った先「はの門」が見えている。
向かって右(東)の柱の下に転用された石灯籠の基礎石がある。

(ホームページから拝借した写真)ちょっとわかりづらい

 

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姫路城の瓦紋

「に」の門櫓の西面にある軒唐破風の棟に乗っている鬼瓦には、十字紋が彫られている。キリシタン大名だった黒田官兵衛が城主だった頃の鬼瓦だったという説もあるが、官兵衛がキリスト教に入信したのは1583年(天正11年)頃のことで、
官兵衛と関連付けるのは無理があるとのこと。
そもそも羽柴秀吉が新たな姫路城を築いたのも1581年(天正9年)のことで、
官兵衛はそれより前の1580年(天正8年)には篠の丸城に移っているため、
姫路城を離れている。そのため、この鬼瓦は池田輝政の時代のものと考えられるが、
キリスト教とは関係がなさそう。

 

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鉄砲間があるこの石段の景色は 画家好みの場所だ

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鉄砲間

997カ所が残る「狭間」。

円、三角、正方形、長方形。
その大半が敵を討つために下を向くが、
「西の丸」の白壁に一つだけ天守閣を向いた穴がある。

 

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石垣の石の形もその時代によって変化している。

 

天守閣で見た景色

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では、また訪れることにしよう。