旅人になりたい

鹿児島の西日本最南端の西大山駅で開聞岳を見、宮崎青島の黄色いポストへ絵葉書を投函した思い出から始まる。

秀吉の播州三木城攻め

2017.10のことです。

羽柴秀吉の 播磨・三木城攻めの時の様子を見てきました。
歴史に詳しいお方なら ご存知かと思います。

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兵庫・三木市の古城跡に立ってみました。
信長方の羽柴秀吉、その軍師である竹中半兵衛黒田官兵衛

当時の播州の盟主・別所長治などに会えるかもしれない。

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三木城の塀越しに見ると、北東辺りが羽柴秀吉軍の陣地です。

昔の繁栄した城下を見ることは叶いませんが、

今では自然豊かな故郷という感じの町並みです。

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1577年、羽柴秀吉は中国地方の平定を目指して奔走していました。
黒田官兵衛から姫路城を譲り受けた羽柴秀吉は、播磨国の攻略を始めました。
信長に催促されながら必死に頑張っている頃の話です。

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東播磨地域最大の大名で20万石もの領土を持つ別所長春は、
織田信長と同盟を結んでいたのですが、1578年に別所長春は毛利方へと

寝返りました。近隣の大名が毛利方についたためと言われている。
羽柴秀吉信長の命礼で別所長治の籠もる三木城を包囲します。

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しかし、地形を味方にした三木城は簡単に攻略できません。
そこで、羽柴秀吉は三木城を孤立させ兵糧攻めにすることを決意します。
周囲の支城をひとつひとつ潰しにかかり、補給路の封鎖も行いました。

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平井山の陣営を守っていた秀吉の軍師・竹中半兵衛重治は、

労咳のため、陣中で亡くなりました。

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うっそうと茂った林を進むと墓地がありますが、一人では足が進まない。

毎年、出身地である岐阜県から、供養に訪れると聞きました。

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その小高い丘の上が秀吉の陣地になっていました。

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毛利方は、籠城している三木城内の人達を助けようと

兵糧を送り込むことに専念しますが、そのつど秀吉軍に阻まれます。
食料の届かない城内では、草や木の根、ネズミ、壁土の藁、
牛や馬まで食べつくし、飢え死にする者が続出したそうです。

 

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切腹した別所長治の首は、お城の西にある雲龍時の首塚に葬られたようです。

 

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三木城包囲から2年目の1580年、8月1日。
羽柴秀吉はついに総攻撃をかけ、やがて降伏させました。
この戦いは、その凄まじいまでの城内の様子から
「三木の干殺し」といわれるようになったそうです。

 

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タイムスリップで一部始終を見てしまいました。

 

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ああ、悲惨な事件でしたね。

城山の階段を降りる気力もなくなりました。
死んだ武士たちの怨念や亡霊が足を引っ張っていたのかもしれませんね。

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昔は賑やかだった商店街のアーケードも古びて、
シャッター道りになっていました。
昔の栄華は二度と訪れそうにもありませんね。

突き当たって左側へ歩くと、三木駅があります。
帰ろうとすると小雨がパラついてきました。