バリケンという鳥
動画を撮ってみました 笑
見たことも無い珍しい鳥が住み着いている。
天気が良いので池の淵を歩いていると日向ぼっこしていた2羽の鳥。
バリケンと言う珍しい名前らしい。
ここに住み着いたのか疑問だったが、
パンくずで餌付けしているおじさんを見て納得した。
カモ目カモ科に分類される鳥類の一種。
南米でノバリケンを家禽化したものがバリケンと呼ばれるようだ。
そばの公園で遊ぶ子供たちの人気者にもなっている。
産んだ卵を温めていたが、カラスなどに狙われたようだ。
池では餌の魚が獲れるから良い住み家なんだろう。
この池には大きな鯉や赤耳亀も沢山繁殖している。
飼うのが大変になった人が池へ放つのでしょうね。
アメリカザリガニや赤耳亀の放棄は、
2023年の春に罰金や処罰されることが決まったので注意しないとね。
餌を狙うサギも飛来してくる。鵜も飛来する。
秋の風景は寂しいが綺麗だ。ミノムシがぶら下がっているのが面白い。
ススキが風になびいている
池の横の幼稚園の紅葉が特別にきれいだ
★私のユーチューブ
桜島フェリーのうどん
桜島と鹿児島市内を往来するフェリー船上で食べるうどんが人気です。
食べることは旅の楽しみでもある。
薩摩揚げと油揚げを添えて、関西風味の出汁が旨い。
桜島フェリーなら片道15分位だから、急いで食べなければいけない。
猫舌の人には厄介な短時間でしょうね。
桜島フェリーターミナルに到着すると、足湯や温泉があり、
近くには ♪長渕剛が徹夜の野外コンサートをした伝説の広場がある。
ギターを弾いて熱唱した長渕剛の記念碑。叫びの肖像の前でパチリ!
訪れるファンも多い。
鹿児島市内から右方向(鹿屋方面)へ航行すれば垂水フェリーターミナルへ。
30分以上の乗船余裕があり、ゆったりと桜島の雄大な景色が楽しめる。
鹿児島はマイカーとかレンタカーが便利です。
注意すべきは、桜島から降り注ぐ火山灰で車が汚れることです 笑。
広島・呉へ行きたい
呉の大和ミュージアムへ行った時の写真
第2次世界大戦後の4年目に生まれた私。
戦争を知らない子供たちです。
しかし、子供の頃は食卓を囲むと父が毎日のように、飽きもせず
戦争体験を語ってくれたので海軍の大体の事は想像できる。
訓練、食事など船上での暮らしぶりが感じ取れた。
その話を飽きもせず聞くのも楽しかった昭和30年頃の時代でした。
97歳で亡くなった父には、もっと聞いておきたかった事が沢山ある。
とても懐かしんで、私が子供の頃に語ってくれたように
嬉しそうにくどくどと解説してくれたものです。
軍隊体験者にしか分からない懐かしい思い出なのだろう。
第2次世界大戦当時、招集令状が届いた時の初年兵の父が体験したのは、
呉の軍港で戦艦大和の装備品製作に関わったという事実。
図面を見ながら旋盤などを駆使し機関砲を作ったそうだ。
テレビでドキュメンタリーを放映することがあった。
それを観た父の感想は、あれは? これは?
事実とは違う、真相はこれだ!
体験した事実とは裏腹な内容が放映されていたようだ。
テレビ局へ電話しても取り合わないとのことだった。
海軍工廠その後、輸送船の任務に着き、日本近海、海外へ赴いたそうだ。
敵機B29に発砲したこともあったようだ。
一番狙われやすい輸送船なのだが、幸いにして生き延びた。
まもなく釜石港に入港出来ると喜んだのもつかの間、
当時の製鉄所の煙突が破壊されて1本も無いのが見えて驚いたと言っていた。
昨日、アメリカ軍の空襲にあって街は壊滅していたとのこと。
呉の軍港で共に働いた戦友たちの多くは、戦艦大和の乗船を志願した。
戦艦大和は沖縄近近で攻撃を受け、戦友の全てが戦死している。
何度も命拾いしたと言っていた。
大和ミュージアムとは
戦艦「大和」の巨大模型は迫力満点
日本一の海軍工廠のまちとして栄え、戦艦「大和」を建造した軍港、
呉の歴史や造船・製鋼を始めとした科学技術を紹介する博物館。
館内には、戦艦「大和」を10分の1スケールで再現した巨大模型が展示されており、
間近で見学することができます。
船を中心とした科学技術の原理を体験・体感を通してわかりやすく紹介している展示室のほか、零式艦上戦闘機六二型(ゼロ戦)などの貴重な実物資料を展示した大型資料展示室もあり、呉の歴史・呉の技術、そして平和の大切さを学べる施設になっています。
大和ミュージアム付近の美味しいランチ
●呉龍 麺が独特!
●珍来軒 呉名物である、呉冷麺の行列店
●福住 フライケーキ 呉の伝統的なお菓子の「フライケーキ」のお店
●エーデルワイス洋菓子店 呉本通店 プルンプルン♪地元人自慢のクリームパイ
●モリス
●麺処 いつか
●お好み焼 めいじ
●maya.
●呉 ハイカラ食堂のカレー
播磨 聖徳太子の鶴林寺
近場で 心清めて 春の歴史旅
播磨の国・加古川に聖徳太子ゆかりの「鶴林寺」があります。
本堂と太子堂が国宝、美術品など18件が重要文化財に指定されています。
境内も広く、太古からの様々な建築物が目をひき、
まさに播磨の法隆寺とはよく言ったものです。
鶴林寺でお釈迦様の誕生を祝う法要がありました。
いわゆる「花まつり」のこの日は、
運が良く無料開放で入山できました。
国宝の太子堂は1112年の建立。
兵庫県下最古の木造建築物で、現存する日本最古の法華三昧堂です。
室町時代に創建され、江戸時代に大修理が行われた三重の塔は、
1936年に火災にあい、新しい色になっているらしいです。
この時以来、鉄柵で囲み、近づけなかったのですが、
ラッキーなことに今日は特別に縁側から上がっても良いことになりました。
内部に安置された大日如来像を二度と参拝できないと思います。
なぜ鶴林寺と言うのかと思っていましたが、謎が解けました。
1112年、太子堂壁面の涅槃図に「お釈迦様が涅槃に入られた時、
沙羅双樹の林が一斉に白く枯れ、鶴の群れのように見えた」
という場面が描かれている事に由来するそうです。
本堂の前には菩提樹と沙羅の木が植えられていました。
境内のツツジが満開で彩りをそえていました。
正面に立つと龍の口から清め水が出ます。
境内の茶屋でいっぷく。
色あせた古代の木の香りです。
よく手入れされた日本庭園です。
かつて放映されたテレビ大阪「おとな旅」では、
三田村邦彦と雪乃ちゃんが、この場所で神妙な顔で見入っていました。
いいですね、白壁のアングル。
宝物館では、官兵衛、鶴林寺の国宝を守る!という特別展がありました。
戦国時代には、信長・秀吉などから弾圧されましたが、
信長に寺領を差し出し危機を乗り越えたそうです。
官兵衛は鶴林寺を崇敬していたので、
戦の勝利に感謝して巨額の寄進をしていたそうです。
信長・秀吉の禁制や書状などが展示されていました。
本物を見るとわくわくしてきます。
正門前に土産店がありました。
お酒のぐい飲みや加古川名物の最中などをガレージで売っています。
放映されたテレビ大阪「おとな旅」では、三田村邦彦と雪乃ちゃんが、
ぐい飲みを買っていたことを思い出しました。
最中(和菓子)
帰宅して珈琲を飲みながら食べると、とても美味しかった
近場の旅は、お金も安くあがるし、気楽でいいですよね。
須磨寺 平敦盛に会いに
何年か前の記憶をたどります↓
播州路に涼しい秋がやってきました。
あちこちで祭りのお囃子が聞こえています。
でもまだ、昼間の太陽は頭が焼けそうに熱い。
妻を誘って須磨寺を散策したあの日。
もう一度、一緒に歩きたいが、叶わぬ夢のあと。
山陽電車の須磨寺駅で降り、寺への傾斜道を歩きます。
源平ゆかりの史蹟がたくさんある須磨寺は
NHKの大河ドラマ「平清盛」で賑わいました。
毎月20日と21日のお大師さんの日は須磨寺駅から
参道沿いに屋台が出て、参拝客で賑わいます。
商店街の店をひやかして通りぬけるのもまた楽し。
お香などを売ってる店先で、テレビ取材の時のPOPが目につきました。
テレビ番組・せのうさんのルポ「せのブラ」の記念写真がありました。
店主は嬉しそうに当時の模様を話してくれました。
漫才「ますだおかだ」の増田さんのルポ、ちちんぷいぷいのときの取材、
NHKの取材など、過去には沢山取材に来てるんです。
店主が自慢したいはずです(笑)
須磨寺は真言宗のお寺。「須磨のお大師さん」として親しまれている。
正式には上野山・福祥寺と言うそうです。
歩き出して約5分で両側に仁王像が立っている仁王門に到着。
一礼して仁王門をくぐると、本堂に続く参道があります。
六甲山系の水が汲める弘法大師の岩があり、そこの柄杓で手を清めます。
ペットボトルを数本持参したおばちゃんがいました。
飲んでみるとサラリとした美味しい水でした。
少し進むと左側に「源平の庭」があり、
平敦盛と熊谷直実が一騎打ちをしている像があります。
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平敦盛のことを調べてみました
平敦盛は1169年に誕生。
平家棟梁の平清盛の弟の平経盛の末子になる。
平家一門が皆、官職に就いていく中、平敦盛だけ無官であったために
「無官大夫」と呼ばれている。
平家が順調に栄え、敦盛も長生きしていれば官職に就くはずだった。
敦盛は笛の名手だったようだ。
祖父の平忠盛が鳥羽天皇からもらった笛は、
父・経盛に渡り、それを敦盛が譲り受けた。
17歳の敦盛は一ノ谷の合戦で、敵将・熊谷直実に討ち取られるが、
その時、敦盛と名乗らなかったので、誰の笛かわからなかったそうだ。
後で敦盛だったとわかり、笛は敦盛の父である経盛に返されている。
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須磨寺は「一ノ谷の合戦」後、平家一門の菩提所となりました。
敦盛の首塚など境内にはいろいろな史跡があります。
庭に「わらべじぞう」の置物があり、何とも可愛い姿です。
願えば悩みを解決してくださる「お地蔵様」だという。
亀を触りながらお願い事をすると、願いが叶うという有難い物もあります。
なんと至れり尽せりのお寺だこと^^.
源平合戦のシーンを小石を使い人形を作って見事に再現。
デザイン感覚の優れた器用な人なら、作ってみたくなるでしょうね。
須磨寺は、平安時代の初め、漁師が和田岬の沖で引き上げた聖観音像を、
仁和2(886)年に聞鏡上人(もんきょうしょうにん)が
須磨の地に移したことが始まりとされています。
平敦盛遺愛の「青葉の笛」や「弁慶の鐘」さらに「敦盛首塚」や
「義経腰掛の松」など、多数の重宝や史跡があり、
付近は古くからの門前町として知られています。
境内には至るところに楽しませてくれる物が設営されていて
参拝客を飽きさせません。
ミナト街神戸の中心部より、山陽電車で西へ約20分。
源平の古戦場や須磨ビーチ、須磨浦山上遊園など
歴史と風光明媚な須磨の地にある「須磨寺」。
サラリと見学しただけなので、
歴史を紐解く時間がまだまだ欲しいところです。
ああ、なんと時間のかかるブログを書いてしまいました^^/
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清盛は出家後の1169年、福原に移り住みました。
大輪田の泊を国際貿易港に修築し、日宋貿易拡大に取り組みました。
1180年に天皇や上皇らが福原入りし、清盛は都造りに情熱を注いだが、
内乱の広がりで遷都は未完のまま終わりました。
もし、このまま神戸が栄えていたらと思うと、残念な結果です。
歴史は、ちょっとしたことで、とんでもない方向へ行ってしまいますね。
あの時こうだったら、こうしてればよかったのに・・・
胸がワクワクするような歴史、その振り返りも楽しいものですね。
平清盛の足跡を辿った日
何年か前の記憶をたどります↓
2012-11-05
ラジオ関西のパーソナリティ・桂春蝶さんと
美人の塩田えみアナウンサー企画による
2000人ウオークラリーに参加してみた。
二人の会話はテンポ良く歯切れが良い。
朝9時半、JR兵庫駅前でお二人が参加者に挨拶して、
平清盛の足跡をたどるウオークラリーが始まった。
初体験の神戸の街・兵庫は右も左もわからない。
みんなに付いて歩けば疲れないし、何処までも行ける。
コースはJR兵庫駅前から、平清盛が活躍していた当時の足跡をたどり
神戸ポートタワーのある広場まで歩いてゴールする。
兵庫大仏
境内ではお茶会を始めイベントが賑やかに行われていた
千石船で富を得た大商人・高田屋嘉平の住居跡もあった。
記憶は曖昧だが、彼は淡路島が生誕地ではなかったかな?
寺社仏閣には殆んど興味なかったが、
平清盛の歴史を勉強できるとなれば願ったり叶ったりの機会だった。
好きでもないことが好きになるのは面白い。
七宮神社
月島橋
ここが当時の港 大和田の泊
ラジオ関西生中継の会場では清盛隊の舞踊演技も始まる。
公開放送は「田辺眞人のまっこと!ラジオ」、ゲストは神戸市長。
清盛と記念撮影(清盛が大きかったのか俳優が大きいのか
甲冑は重い
和田神社は、清盛が大輪田泊の修築祈願をした神社。
この清盛塚は、私の父の少年時代の遊場だった所。
自分のルーツはこんな所にあったのかと感慨深い。
辺りは太平洋戦争の焼夷弾で焼けて当時の面影は無い。
その後、清盛塚は場所が移動してここに設置されている。
清盛塚近くの真光寺跡弁財天
父の生家は、この真光寺前のアーケードのある商店街にあったそうだ。
お寺の住職に聞いてみたが、昔の事を知る人はいなかった。
来迎寺
津の道を歩く
壁画が多い。地元を愛する神戸っ子の思いが伝わる区域 津の道。
兵庫工業高校辺り
神戸ポートタワー前へゴールしたのは午後2時。
歩いている途中で足が痛くなったが、勢いで歩いてしまった。
老いも若きもスタスタ歩くので時間の流れが早かった。
大河ドラマ・清盛の長男役の「窪田正孝」と桂春蝶さんのトークショーもあった。
歩き疲れた人達もにこやかに拍手をしていた。
みんなグッタリと座り込む。
そして抽選会は大いに盛り上がるが、
何も当たらず疲れが溢れて出た。
1975年の神戸・淡路大震災のメモリーとして
優勝したプロ野球ORIX選手のサイン壁画も
年月が過ぎると心無い若者に落書きされ汚されてている!
イチロー選手のサインさえも知らぬ馬鹿たれに罰を与える!
もっと歴史を学んだり賢くなって欲しいものだ。
鞆の浦の鯛網漁
鞆の浦に約380年も伝わる伝統漁法・鯛網を見るためです。
これは鞆の浦の初夏の風物詩となっている。
鯛は産卵のため、波穏やかな鞆の浦沖へとやってくる。
江戸時代初期までは陸地よりの地引網漁法だったが、
現在は船での網漁になり、観光船から漁の全てが見られる。
出漁前に、航海の安全と大漁を願う樽太鼓と大漁節が浜中に響く
網船の準備が整った
弁財天の使い・乙姫が大漁祈願の舞を踊りながら船を漕ぎ出そう
小さな船で弁天島の弁財天に祈願して出漁する。
観光客は予約しておいた観光船に乗りダイナミックな漁を見守る。
観覧料(鞆から仙酔島への渡船料を含む)
大人(高校生以上)2,800円/小・中学生1,400円
海上と浜には、縁起の良い琴の楽曲(春の海)などが流れていた。
船から網が投げられ、古式そのままに網がしぼられている。
鯛が追い込まれているんだろうな、なかなかの見ごたえだった。
漁が終わり鯛が売りに出される。
大振りで新鮮な鯛は飛ぶように無くなった。
★ほかにも見どころが多い鞆の浦
幕府から命を狙われていた龍馬が滞在していた桝屋清右衛門宅。
幕末の”いろは丸事件”のときに偽名をつかって屋根裏部屋に潜んでいたらしい。
いろは丸展示館は、幕末の”いろは丸事件”を紹介している資料館。
江戸時代末期、瀬戸内海で海運業を営んでいた坂本龍馬らが乗った「いろは丸」が、
紀州藩の軍艦と衝突し沈没してしまった”いろは丸事件”。
館内では原寸70%の大パノラマで再現された「いろは丸」を展示し、
いまも瀬戸内海に沈む「いろは丸」から引き上げられた遺品を紹介している。
鞆の浦の西側、後山の中腹にある「医王寺」は、真言宗の歴史ある古寺。
境内からさらに高台へ583段もの階段を登ると「太子殿」があり、
そこから眺める鞆湾の全景は素晴らしい。
鞆の浦のシンボル「常夜燈」は、映画やドラマにもたびたび登場する観光スポット。
船の出入りを誘導する灯台として、古くは「燈籠塔(とうろどう)」と呼ばれ
親しまれてきた。
今も夜にはぼんやりと明かりが灯り、ロマンティックに港を照らしている。
★宿泊は、一流ホテル「欧風亭」にある屋上展望露天風呂と料理が良かった。
夏なら花火や、手の届きそうな満天の星が楽しめる。
2020年(令和2年)は新型コロナウイルス問題が発生し、
鯛網漁は中止になったようだ。
暫くは旅行できないなぁ・・
日本のエーゲ海 牛窓
途中に現われるオリーブロードの標識を左折する。
まっすぐ突き当たりまでに(左山の上にある)オリーブ園に到着。
ここは、恋人の聖地として認定されているのでカップルが多い。
展望台オリーブパレスの近くに「幸福の鐘」がある。
その幸福の鐘を3回鳴らす♪と幸せになれると言われているそうだ。
日暮れなら、海と夕日の美しさなど最高なんだろうな。
●「牛窓神社」は縁結びのご利益もあり、恋愛祈願ができるらしい。
●「しおまち唐琴通り」は昔ながらの風情がある。
古くから船の潮待ちの港町として栄え、江戸~昭和30年代の面影が、
当時の姿そのままに残っていた。
高速道路の下を西側へくぐると下津井の港。
ここは映画でみたロケ地だった。
その記念館があったので暫く見学してみた。
色んな事も知る事が出来た。
脱穀した後の籾付き米の選別機。
手でぐるぐる回していたね。
昭和の時代まで米を脱穀するのに使っていたね、懐かしい機械。↓
忠臣蔵の赤穂でござる
赤穂へは何度も訪れているが、行く度に新しい発見がある。
その日は12月14日で「赤穂義士祭」パレードの日だった。
朝から赤穂城へのメイン通りは超満員の人出。
JR赤穂駅前では観光客に甘酒を振舞っている。
寒い朝だったので嬉しいおもてなし。
ほっと暖まってから、赤穂高校の皆さんと記念撮影。
なんだろう、演劇部だったりして。
お猿の大道芸も華を添える
47人が吉良邸へ討ち入った12月14日は、
赤穂赤穂市民上げてのお祝い日となっている。
吉良方にとっては、嫌みな祭りだろうと思うが。
山鹿流陣太鼓を打ちながら城下を練り歩いた。
子供行列
JR播州赤穂駅前までの約1.5kmの道中は、
大名行列、義士行列、義士娘こし道中、元禄義士踊りなど、
忠臣蔵名場面の山車などが5時間かけて行進した。
時折冷たい風が首筋を舐めるが、
元禄時代に戻ったようで、見応えのあるパレードだった。
大石内蔵助役は、毎回、人気俳優陣が登場する。
人気俳優が歩くと祭りがピリッと締まる。
女優の富司純子さんも参加されたことがある。
終盤は意気揚々と芝高輪泉岳寺へと向かう四十七義士の義士行列。
沿道の観客のかけ声がにぎやか。
次々と出し物が・・
赤穂城へのメイン通りは露店が並び、
美味しいものを見つけて食べ歩きできる。
赤穂・相生・室津など海岸線に牡蠣の本場が並ぶが、
赤穂の牡蠣は特に食べ頃。露店を冷やかしながら歩くのもまた面白い。
他にも武道大会、盆栽展、バザーなども行われていたようだ。
有名な赤穂の塩で作る塩味饅頭は全国へのお土産に、
赤穂の海で穫れる蠣の味も絶品だ。
朝に法要があった花岳寺へ参拝して義士に手を合わせる。
★忠臣蔵という名前で語り継がれているが、
事件の発端は討ち入りの1年半前、元禄14年3月14日午前11時頃のこと。
浅野内匠頭長矩が、江戸城・松の廊下で吉良上野介義央に斬りかかる。
浅野内匠頭は皇室の使者を迎える準備に携わっていたが、
その時、要領を得ず、吉良上野介の不興を買って馬鹿にされたため、
発作的にこのような愚行に及んだと言われている。
城内歩き大石神社へも参拝した。
神社前で義士47人の像が迎えてくれる。堀部安兵衛らの像が目についた。
正門は何百年の重い歴史がある。
大東亜戦争(太平洋戦争)で神戸が空襲にあい、
焼け残った門を急遽赤穂へ移動させて建立したという。
楠 正成公を祀る湊川神社の正門が蘇った姿を写真に収めてきた。
神社内では、討ち入り当時の資料が集められ興味深い。
吉良上野介を討ち取った時の小刀などが飾ってあった。
境内には 一文字流しという祈願のコーナーがある。
一番困ってる事柄の頭文字を書いて、汲み溜めた水に流す。
病という文字を紙に書いて、念仏を唱えるあいだに
誰にも見られずに紙は溶けていく。面白い趣向だ。
私は滅多にお参りしない、迷信も信じないが、なぜかすがってみた。
その願い事とは、以前のように少しでもお酒が飲めるように回復したい。
大石神社はどんな祈願もできるらしい。
本来、願い事は目的によって、どこどこ神社と決まってるのだが。
太っ腹は観光客を呼び込む手段が増えたと言うべきかな。
今までは 神社仏閣に興味を持たず、何気なく眺めていたが、
読んだり聞いたりしていると、知識が身につくね。
★大石神社は、JR赤穂駅から南へ徒歩15分くらい
★討ち入りの夜の状態
浪士たちは表門と裏門の二手に分かれて吉良邸に侵入した。
上野介は物陰に隠れているところを発見され、討ち取られる。
吉良邸は不意を付かれたためほとんど無抵抗の状態で、
赤穂の討ち入り側には、一人の死者も出ていない。
まさに計画は用意周到だったわけだ。
★
そろいの羽織を着て堀部安兵衛宅に集まって向かったなどという話や
合い言葉「山」「川」を使った、という話はあるが、
実際は怪しまれないように、みんなばらばらの衣装で、
江戸市内の数カ所に分散して集合してから、
なるべく、ばらばらに吉良邸をめざしたようだ。
内蔵助ら数人の武士は、火消装束を着ていたともいう。
これは、夜中に町を歩いていて見とがめられたときに
「火の用心の夜回りをしている」と答えるたと言われている。
討ち取った後、泉岳寺の浅野家の墓の前に上野介の首を捧げ、焼香。
この時、内蔵助は寺坂吉右衛門に密命を与え、立ち去らせ、
残りの46名の浪士が自首して出たとのこと。
映画やドラマで知る事と、真実に近い話で、歴史は面白いと思う。
★討ち入り参加者47名。
大石内蔵助良雄 吉田忠左衛門兼亮 原惣右衛門元辰 片岡源五右衛門高房 間瀬久太夫正明 小野寺十内秀和 大石主税良金 礒貝十郎左衛門正久
堀部安兵衛武庸 赤埴源蔵重賢 奥田孫太夫重盛 矢田五郎右衛門助武 大石瀬左衛門信清 早水藤左衛門満堯 間喜兵衛光延 中村勘助正辰
菅谷半之丞政利 不破数右衛門正種 千馬三郎兵衛光忠 木村岡右衛門貞行 岡野金右衛門包秀 吉田沢右衛門兼定 貝賀弥左衛門友信 大高源五忠雄
岡島八十右衛門常樹 武林唯七隆重 倉橋伝助武幸 村松喜兵衛秀直
杉野十平次次房 勝田新左衛門武堯 前原伊助宗房 間瀬孫九郎正辰
小野寺幸右衛門秀富 間十次郎光興 奥田貞右衛門行高 矢頭右衛門七教兼 村松三太夫高直 神崎与五郎則休 茅野和助常成 横川勘平宗利
市川昆監督独特の迫力ある映像に魅了されてしまった。
この映像は、真実に近い吉良屋敷の建築設定だ。
毎年のように忠臣蔵を見ているが、こんな演出は初めて見た。
2017-12-19 の思い出話
無人の赤穂線でウリ坊が
カキオコでお腹が満腹になったところで、辺りを散歩。
近くにあるJRの無人駅赤穂線「寒河」。
そごうではありませんよ。
寒い河と書いている赤穂線の「そうご駅」
久々にローカルな雰囲気の駅を発見。
緑深い山並みの裾を2両のオレンジ列車がこちらへ向かってくる。
オレンジ色が緑に映えてきれい。
三原行列車、三原市って広島だったよね? ここは岡山。
各駅停車の列車に乗るのも楽しいかもしれない・・。
やがて列車が発車し西へと去って行く。
と、、何やら見たことの無い小さな動物がホームに現われた~
ホームにイノシシの子供(ウリ坊)が餌を求めてうろついている。
無人駅で人気も無いから田舎ってこんなもんかな。
親イノシシだったら、のんびり撮影してるどころではないよ。
こんなのんびりしたホームで昼寝したい、と思ったのは間違いない。
で、ごろんとベンチに寝転んだら、天狗山登山ルートの看板が見えた。
★ここは岡山県の東寄りで日生(ひなせ)地区。
岡山方面へ1時間に1本の電車が発車する無人駅。
今日の昼間の降車人数は2人、乗車は2人だった。
カキオコのタマちゃんから すぐそこの駅だった。
辺りはのどかな山村風景、里山というのだろうか。
川辺に咲いた花を摘み取るおじさん。
芙蓉という花かな。
摘み取って家に飾るのかな。
のんびりと み~んな のどかだ。
ここまで来たから、日生の港までもう少し行ってみた。
獲れたてのの魚介類が安く買える。
賑わう時間帯が過ぎていたので、ゆっくりと買い物ができた。
また来てみたい岡山県の日生。
備前日生で牡蠣お好み焼き
2012年秋の頃。
国道250号線をドライブしながら、美味しさ求めて西へ西へ。
赤穂のひとつ西の田舎町は、岡山県になっていた。
牡蠣お好み焼きが人気のお店「タマちゃん」があった。
B1グランプリin姫路 で入賞した店。
国道250号線で、よそ見してると通過してしまいそうなお店。
看板だけは目に付く。
今日のメーンはこの「カキオコ」だ。
お好み焼きに工夫を凝らし、右半分の上は塩味、右半分の下は特性ソース味。
その絶妙な組み合わせは、舌の肥えた関西人もびっくりするほど美味しい。
マスコミの取材が多いのも頷ける。
焼きそばは麺が細くて美味しい。何からなにまで言うこと無しで乾杯!
テレビ取材とか有名タレントなどがサインを残している。
阪神タイガースの元選手(矢野・下柳・赤星)のサインも飾ってあった。
河内音頭の歌手 美津子も♪♪
こじんまりした店は30人の客で満席、店の前では行列ができている。
10時半に着いて少し待ち、11時に入店。
早めに行かないと席が無いという繁盛ぶりだった。
満腹した後は、この辺りを少し散歩してみよう。
米の稲穂が垂れて、黄金色に輝きだすのはもう少し先かな。
相生湾のペーロン大会
季節は春、もう一度行きたい国道250号線の瀬戸内コース。
海岸にキラキラ光るさざ波を横目に「相生湾」に到着。
道の駅は沢山の人で混雑している。
道の駅の造りは、中国の色濃い雰囲気がある。
ペーロンは昔、中国から長崎へ来た労働者が始めたらしい。
長崎のペーロンは有名だが、人の移動で相生へも来たのだろう。
播磨造船所で働いた人達の残し物がペーロン大会だそうだ。
道路脇のコンクリートから発芽して有名になった大根があった。
そのDNAから大根を成長させ、また種を採取して今も成長させていると聞いた。
湾を見ると観光客が海岸にひしめいている。
スタートの合図とともにオールをこぎ出した。ドラの音が響く!
女性陣も力闘して負けてはいない!
にわかカメラマンが焼けに目に付いた。自分も同類なのに(笑)
湾から町通りへ行くと、阿波踊りのテンポがこきみよい♪
ブラジルからもサンバを踊る人が来ている。
勝手に走るでっかいバイクも人目につく。
相生みなとの女王さま。
武者姿がいさましい。
ペーロン大会の最後のレースが終了すると、町中の道路があふれ出した。
今度はお店が賑わう時間だ。
瀬戸内海 牡蠣三昧の店
室津の町の歴史巡りを終えたら、次は海岸沿いに相生方面へ。
崖下は海、その大浦海岸で足を止めた。
冬場なら、途中に幟が見える牡蠣の食事処「住栄丸」立ち寄りたい。
1月から3月は牡蠣が美味しく食べられる。
そこの女将は同級生なので、友人や趣味の団体客を誘って利用している。
予約しないとなかなか食べられないので注意したい。
座敷から瀬戸内海が一望できる絶景。
まず焼き牡蠣からスタート。
大きな大きな牡蠣。
ミルキーな香りが口の中に充満する。
生牡蠣の酢の物、漬物、牡蠣ご飯、牡蠣の味噌汁などで満腹。
座敷で食べて喋って3150円なり。
焼き牡蠣食べ放題メニューもあるが、
ここは座敷に鎮座してゆっくりと味わいたいものです。
お土産に ちょっと買ってみたくなる
この後は、近くにある桜茶屋でゆったり。
疲れがとれた一瞬だったかも。
天気の良い日は、小豆島や家島諸島ガはっきり見える。
戦後から家島の採石が進んで、山の形が随分変形している。
そのうちに島が無くなるのではないかと思うほど小さくなっている。
夏には、水泳のオープンウオーター大会が行われ、
全国からスイマーが集まってくる有名な所でもある。
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まとめ
★牡蠣の養殖も盛んな室津。
昔は西国大名が船の帆を降ろしたので本陣が沢山あり栄えた室津。
平清盛が戦勝を祈願した賀茂神社が平安時代からある室津。
そこから見る瀬戸内海の景色は、絶景とシーボルトが絶賛している。
遊女発祥の地でもあり、朝鮮通信使も室津に立ち寄った歴史ある地。
ひっそりしているが、ぜひ行ってみたい観光地が 室津。
朝鮮通信使も寄港した室津
潮待ち 風待ちの港・室津
713年播磨国風土記には、このように書かれている。
「此の泊 風を防ぐこと 室の如し 故に因りて名を為す」
と記されているように、三方を山に囲まれ、古来より天然の良港として有名だった。
http://www.iokikai.or.jp/siomatinominato.murotu.html
↑とても参考になるURLを拝借した ここに詳細な事がまとめられている
江戸時代になり、1607年 第1回の朝鮮通信使の船が来た。
姫路藩は室津で厚遇な接待をし、藩の公共投資により
室津は国内有数の港町として発展して行くことになる。
朝鮮通信使とは
朝鮮国が徳川将軍の代替りや世継ぎの誕生などの際に、
朝鮮国王からの国書を携えて、派遣された正式の外交使節団のこと。
朝鮮国からの通信使は、室町時代足利将軍にはじめて派遣され、
豊臣、徳川へと続いた日朝友好の証し。
16世紀末の秀吉の朝鮮出兵後は、しばらく途絶えたが、
江戸時代 1607年(慶長12)には、467人の使節団が到着し、再開。
合計12回の使節団が日本に到着している。
最後、1811年5月22日(文化8)の通信使は対馬で応対している。
室津海駅館には、接待時の食事の一例も展示されている
「室津海駅館」は町に入った所にある。
朝鮮通信使の展示資料があり、詳しく学ぶことができる。
http://kobe.travel.coocan.jp/tatsuno/murotsu.htm
賀茂神社(かもじんじゃ)
清楚で優雅さを兼ね備えた社殿は、平安時代の姿をうかがわせる。
兵庫県たつの市室津明神山にある神社のことで、
美しい播磨灘に面して鎮座し、本殿を含めて8棟の建造物が
国の重要文化財に指定されている。
境内に繁殖する蘇鉄は、野生では日本列島の北限として
2020年(令和2年)に訪れた時は、社殿の改修が完成し、
檜皮葺屋根や銅板などが光り輝いていた。
1826年、江戸参府時にシーボルトが訪れ、
参籠所から播磨灘の展望を絶賛するなど景勝地としても有名な所。
現在、寿司・まるよし の手前に本陣があった。
リーズナブルな価格と笑顔の優しいまるよしの大将、昼ご飯に立ち寄ってみたい。
1635年、参勤交代が制度化されると西国大名は海路で室津に寄港。
諸大名が宿泊する本陣が六軒、脇本陣を兼ねた豪商の邸、宿屋、
揚げ屋、置屋など、軒をつらね「室津千軒」の賑わいだったという。
陸路で江戸へ向う大名行列は大変な混雑ぶりとなったそうだ。
小藩で200名、大きな藩になると400人を数えたという。
北前船も続々入港、景気の良い活気を町にもたらす。
室津は、遊女発祥の地としても有名だが、
歌舞伎や浄瑠璃に出てくる「お夏清十郎の舞台」としても知られる。
ラジオ関西 のパーソナリティ谷五郎さん、中野涼子アナウンサーと室津散策